電子ピアノとProgate

最近、自粛ムードのせいか変に多趣味になった。

 

以前までは、私は「趣味?なにそれ?」というくらい趣味のない人間だった。

 

勉強なら勉強。

仕事なら仕事。

 

それ一色になってしまい、息抜きができないというか、特に抜く必要がない。

そういうタイプの人間だった。

 

なので、勉強の成績は上がるし、仕事を片付けるのも早い。

時間が出来たら少し凝った料理をしたり、読書をしたり。

でもその本も仕事に纏わるものがほとんどだった。

 

それがいけない、ということはないのかもしれないし

逆に言えばそれだけ仕事としてやっていることに関心があるのだから、良いことなのかもしれない。

 

でも、休みのたびに山に登ったり、自作のアクセサリーをフリーマーケットで売ったり、職場でお昼休憩にルアーを作っていたりする人を見かけると

楽しそうだなあ、とうらやましく思っていた。

 

そんな私だが、このコロナ流行下、平日も休日もできることが限られていて、

時間が増えたからなのか、外出できないからなのか、色々とやりたいことが出てきた。

 

誰かが「ラプンツェルがなぜあんなに多趣味だったのかわかる気がする」とかつぶやいていたのを見かけたが、全くその通りだ。

 

 

 

ウェブ関連の仕事が出来たらかっこいい

 

まず最初に始めたのは、ウェブ関連の勉強だ。

 

ことの発端は、在宅勤務が始まった頃。

「今回のように感染症が流行しても、ウェブ関連の仕事をしている人は大きな支障がなく仕事ができていそう。やっぱりこれからはITの時代なんだな」

と、かなり安直に考え、ウェブ関連の仕事が出来たらかっこいいなと思い始めた。

 

きっかけはそんな些細な想い付きなのだが、

よくよく考えてみると、英語にせよ、プログラミングにせよ、公立学校で必修科目になったものというのは、平たく言えば「国民全員が身に着けるべき教養」ということだ。

 

例えば私たちの親世代は学校でパワポもエクセルも触っていなくて、ちょっとした資料すら作れないという人も多かった。

私が大学時代にバイトをしていた飲食店で。「みゆさん、パワーポイントって使える?ちょっと手伝ってほしいんだけど」と正社員の方からヘルプを求められた時にはびっくりした。

 

私たちは学校で普通にやってきたことを、今社会で働いている大人は知らない。

 

当時の私は驚いたが、特にIT関連の分野では、こんなことがこれからも当たり前に発生するのだろう。

 

今は私が社会人になり、仕事で接した子どもが「夏休みの自由研究でプログラミングをしてゲームを作った」なんて話しているのを聞いて驚いた。

でも、向こうからしたら「いい大人がプログラミングのプの字も知らない」ことに驚いたのかもしれない。

 

「学校で習っていないから知らない」「自分の仕事に関係ないからわからない」というのは、最もではあるが、あまり格好良いものではない。

 

私が子どものころなんかは、「ウェブ関連の仕事って現代的でかっこいい」くらいに思っていたが、今や簡単なコーディングやプログラミングはできて当たり前なのかもしれない。

 

思い立ったが吉日で、私はウェブ関連の勉強を始めてみることにした。

 

「Progate」というサイトでコーディングの勉強をしてみたり、ウェブデザインの通信教育の無料体験を受けてみたりした。

 

prog-8.com

 

通信教育は費用が高かったので一旦保留にし、独力でできるところまでスキルアップしてみることにした。

Progateはゲーム感覚でコーディングやプログラミングが学べるので、隙間時間を使ってコツコツやってみるのもよさそう。

 

あと、イラストレーターやフォトショップを使って色々とデザイン出来たら楽しそうなので、こちらも始めてみた。

 

長続きしないかもしれないけど、何もしないよりマシということで。

 

 

 

アラサー、電子ピアノにハマる

 

二つ目は電子ピアノ。

 

こちらはきっかけは偶然で、義理の母が娘に電子ピアノをプレゼントしてくれたのだ。

 

item.rakuten.co.jp

 

私は小さいころにピアノを習っていたのだが、先生が家に来る日以外はほとんど練習しなかったからか、あまり上達しなかった。

そのせいかなんとなく楽器全般に苦手意識があった。

怒られる、注意される、発表会に出される。やらなければならないもの、という意識。

 

でも今回電子ピアノが家に来て、せっかくだから弾いてみた。

すると、とっても楽しかった

 

楽しめた理由はいろいろあるかと思うが、電子ピアノは普通のピアノと違ってゲーム性があるというのは大きな要素だと思う。

 

子どもの時はピアノは自分の弾いている音と、あってメトロノームの音だけで、あまり楽しいとは思えなかったが、電子ピアノは鍵盤が光り、BGMと共に弾ける

 

家で一人で歌うのと、カラオケに行くのくらいの違いだ。

 

あと、ヘッドフォンを付けたら周りに聴かれることを気にしなくても良いのも気楽でいい。

 

夢中になって弾いているうちに、

自分は楽器ではなく人目にさらされることが嫌いだったんだな、と気が付いた

 

人の目を気にせず弾けるピアノは楽しい。

大人になって、そのことに気づけて良かった。

 

娘はまだ2歳なのでピアノを弾くことはできないけど、好きな音楽を流すと嬉しそうにしている。

 

いつか親子でピアノを取り合う日が来るかもしれないな、と思った。

 

 

焼肉大好きな私が肉を絶ってみて分かったこと

私の断肉生活のきっかけ

 

5月に入ってから、なるべくではあるけど、肉を断っている。

 

きっかけは、こんな記事を読んだからだ。

 

コロナパンデミックの原因は「動物の軽視」 霊長類学者グドール氏 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

世界的に有名な英出身の霊長類学者、ジェーン・グドール(Jane Goodall)博士(86)は、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)は、人類が自然を無視し、動物を軽視したことに原因があると指摘している

 

氏の主張は以下の通り。

 

 

グドール氏:われわれが自然を無視し、地球を共有すべき動物たちを軽視した結果、パンデミックが発生した。これは何年も前から予想されてきたことだ。

 例えば、われわれが森を破壊すると、森にいるさまざまな種の動物が近接して生きていかざるを得なくなり、その結果、病気が動物から動物へと伝染する。そして、病気をうつされた動物が人間と密接に接触するようになり、人間に伝染する可能性が高まる。

 動物たちは、食用として狩られ、アフリカの市場やアジア地域、特に中国にある野生動物の食肉市場で売られる。また、世界中にある集約農場には数十億匹の動物たちが容赦なく詰め込まれている。こうした環境で、ウイルスが種の壁を越えて動物から人間に伝染する機会が生まれるのだ。

 

つまり、

環境破壊 (動物の住処を奪う) と

肉食 (動物を集約農場に詰め込み繁殖させる)という動物への軽視によって、

動物が近接して生きざるを得なくなったことが感染症発生の根本的な原因だ、という主張だ。

 

私は、この主張が正しいのかそうでないのか、正直言ってよく分からない。

 

でも、少なくとも都市圏で人々が密接して暮らしていることが、そこでの感染症拡大の大きな原因になっていることは明らかだし、

 

人間以外の動物の場合でも、密接することによって感染症が蔓延しやすくなるというのはイメージしやすい。

 

 

肉食が及ぼすその他の影響

 

それ以外にも、これまで肉食によるネガティブな影響については色々なところで耳にしてきた。

 

代表的なものは、温室効果ガスの排出。

「温暖化ガス排出食」の王者は牛肉、畜産分野の約80% 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

全世界の温室効果ガス排出の18%が畜産業関連と言われ、中でも牛肉生産による排出量が最も多い。

地球温暖化を止めるには私たちが「肉や乳製品を食べなくなる」ことが不可欠 - GIGAZINE

畜産は二酸化炭素よりも強力な温室効果を発揮するメタンや亜酸化窒素の主要な排出源であり、森林破壊の主要な原因でもある。

 

また、畜産に必要な土地を確保するための森林伐採や、食用の肉の処理に大量の水が使われることなども問題視されている。

f:id:romrima:20200519143444j:image

出展:

https://www.greenpeace.org/japan/sustainable/story/2018/03/17/6905/

 

 

試しに断ってみた

 

それぞれの説に懐疑的になることは出来なくはない。

だが、ここまで色々言われているということは

肉を食べることは大局的に見れば、どうやら良いことではないらしい。

 

これまでも「畜産のCO2排出量は〜」「そもそも倫理的な問題が〜」など、肉食に関する否定的な情報を耳にすることはあった。

 

でも、

  • 今までずっと食べてきたし、やめるなんてできるの?
  • そもそも人間って肉を食べるようにできてるんじゃないの?
  • 身体が弱くなったり、体調を崩しやすくなったり、貧血になったりしないの?

 

という不安もあり、

「じゃあやめましょう」とはならなかった。

 

だが、今回コロナで今まで経験したことのない人類の危機を感じ、

さらに今は在宅だし、外出しなきゃいけない用事もないし、多少身体が弱くなっても大丈夫じゃない?ということに気がついたので、

思い切ってやめてみた次第である。

 

 

やめてみて思ったこと

 

具体的には、5月の1日から10日まで、肉を一切食べなかった。

食べないのは肉だけで、卵、牛乳、魚、シーフードなどはOK。

 

10日間の期間限定にしたのは、上に書いた通り、「本当に大丈夫か?」という不安があったためだ。

 

この時思い出されたのは、

私が妊婦だった時に、異常なほどに糖分を欲していた時の記憶だ。

 

自分の生命を維持した上で、お腹の中の別の生命体の生命も維持し、新たに身体を作っていかなければいけない。

 

妊娠前と同じ食生活をしていたら、間違いなくエネルギー不足になる。

 

甘いものが欲しい、糖分・糖質が欲しい。

 

それは間違いなく身体が発していたメッセージだった。

 

その時のように、これまで当然のように摂っていた肉を摂らなくなると、今まで感じたことのないような欠乏感が襲ってくるのではないか。

 

そんな不安があったが、

 

結論から言うと

なんの問題もなかった。

 

体調的にも問題なかったし、

肉を食べたいとすら感じなかった。

 

「え?もう10日?」というくらいである。

 

「もしかしたらこれまでも、10日くらいは肉を食べない期間があったのではないか?」と一瞬思ったが

恐らくそんなことはなく、これまではほぼ毎日何かしらのお肉は口にしていた。

 

 

卵、魚、シーフードがあればなんの問題もない

 

もちろんアスリートなど運動量の多い方や、元々貧血気味の方など、個人差はあると思うが

私が試した限りだと、肉をとらなくてもその他の食材でタンパク質を補っていればなんの問題もなかった。

 

感覚的には、「白い服を着ない縛り」くらいの不自由度だ。

その程度のことで、感染症や環境破壊の大きな要因のひとつを軽減できるのか、と思った。

 

同時に、

その程度で消費される命ってなんなんだろうと、今まで感じなかった気持ちにもなった。

 

もちろん、魚やシーフードにも命はあり、命をいただかずに生きていくのは簡単なことではない。

 

命という観点で言えば、牛丼よりもしらすご飯やタラコの方が残酷な食べ物だと言うこともできる。

 

でも、今回断肉をしてみたことで

どちらかと言えばこういう気分、くらいで生き物の命を奪うことに、慣れてしまっていた自分にも気がつくことができた。

 

私たちが命をいただく時、その罪は自分だけのものにならないように出来ている。

 

生き物を殺す人、それを処理する人、運ぶ人、売る人、食べる人、みんなで罪悪感を分け合っているみたいだ。

 

なんだか死刑執行のボタンを、みんなで押しているみたいな話だなと思った。

 

 

10日目の夜に食べた焼き肉の味

 

そんなこんなで10日間の断肉チャレンジを終えた私は、5月10日の夜に焼肉を食べた。

 

上に書いたような色々なことを感じた断肉だったが、「5月10日の夜に焼肉をする」ということはチャレンジの前から決めていたし、家族とも約束していたので、決行した。

 

大好きな精肉店で買った新鮮なお肉をお腹いっぱい食べた。

以前であればとても幸せに感じていたはずだ。

 

でも、私は自分の心の体が一致していないような変な違和感を覚えてしまった。

 

美味しかったけど、どこか楽しみきれず、次の日からまた断肉することにした。

 

 

これから

 

これからも肉断ちを続けるのか、それとも以前のように毎日食べるのか、私はまだ決めていない。

 

でも、今は10日に1回くらいのペースでお肉を食べる生活を続けようかなと思っている。

 

焼肉を食べた日から9日、私はほとんど肉を食べていない。

(厳密にいうと、ラーメン屋さんでチャーシューを食べてしまったが。)

 

これからも考え続けて、ためし続けていこうと思っている。

海のある生活

先週、海に行った。

ここ1か月ほどの自粛生活にほとほと疲れ果て、

 

「非日常を味わいたい!!」

 

「でも旅行には行けない!!」

 

「どうすれば!!」

 

となった結果、家から車で10分ほどの海に行くことにしたのだ。

 

 

人間も30年ほど続けていると、

「自分はこれをすれば元気になれる」という方法くらいは

いくつか見つけられるものだ。

 

私にとっては、海に行くことはそのひとつ。

厳密にいえば海でなくても、大きな川や湖でもいいんだけど。

 

なぜか大きな水たまりを見ていると安心する。

 

夫は、たまに「そろそろ山に行きたい」と言い始める。

 

この気持ちは私にはわからない。

きっと私が海に行きたがるのも、夫にはピンとこないのだろう。

 

でも、先週の海へのお出かけは私をとても元気にした。

 

柄にもなく、夫とキャッチボールをしたり、

砂浜を全速力で走り回ったりして、筋肉痛になった。

 

 

4日後に。

 

(これ、マジですよ…)

 

 

まぁ、筋肉痛はともかく。

「行こう」と思ってすぐ行ける場所に、海があるのは私にとって素晴らしいことだ。

 

今住んでいる街には、1年ほど前に引っ越してきた。

 

これからもこの街に住み続けるかどうかはわからないけど、ここに住み始めたことで

これからも海のある生活を送りたいなと思うようになった。

 

海の近くはいろいろと不安なこともある。

代表的なものは津波や洪水などの水害だ。

 

でも極端な話、「海の近くに住むことで死ぬことになっても、まぁしょうがないかな」と思えるくらいには海が好きだ。

 

運動や筋トレは嫌いだけど、ずっとダイビングができるくらい元気でいたいから、少しは運動しなきゃなと思う。

 

暑いのも焼けるのも嫌だけど、海に行くのをやめようとは思わない。

 

これが好きっていうことなんだな、と思う。

 

 

私には「これが好き」と自信を持って言えることが少ない。

 

好きなものがあっても、いつも好きなわけではなかったり、

マイナスな面が目に付いて、「じゃあやめとこうかな」「やっぱりいいや」なんて思ったりしてしまうのだ。

 

でも、本当に好きなものの、マイナス面は気にならない。

どんなにデメリットがあっても、時代遅れでも、「自分はこれだな」と思えるもの。

 

それは、そんなにほいほい見つかるものではないのだろう。

 

だからこそ、数少ないそんなものを大切にしたいと思った。

 

 

海にいる間、娘はシャボン玉を飛ばしたり、自分の長靴に砂を入れたりして、

静かに、でも活発に何かを吸収していた。

 

こんな時がずっと続けばいいなと思うような、眩しい午後だった。

 

 

 

育児と言語とサステナブルライフ

育児(2歳の女の子との日々)と言語(英語とスペイン語)とサステナブルライフについてのブログをはじめよう、と思っているけれど、もしかしたら全く違うブログになるかもしれません。

読書記録、政治、国際協力、社会問題、そのほかいろんなことを書いていきたい。

 

気負わずゆるくやっていきます。

 

よろしくお願いします。